甲府柳町で酒造業を営んでいた「十一屋」の五代目にあたる長男・野口正章は、西洋文化に興味を抱く少年でした。
野口は、日本にビールもワインも飲む習慣が全く無かった当時から、ビールが一大産業になると将来を予測。
同級で親交の深かった山梨縣令・藤村紫朗を通じ、大蔵卿・大隈重信に伺った結果、明治7年(1874)5月に認可が下り、生産を開始。ちなみに山梨縣勧業課で葡萄酒試験場の建設がまだ計画中の頃でした。
横浜の駐留外国人ウイリアム・コープランドに醸造技術を学び、
野口が生みだした東日本初の地ビールの名は「三ツ鱗麦酒」
原料の麦芽は甲州産大麦。ホップはドイツ産を輸入しました。
『品位高く風味も頗る淡醸成で驚いた。私の口に合わないあのイギリス産麦酒と比べ物にならない』とドイツ人医師の文章が残されています。さらに明治8年には京都府博覧会に出品し、銅賞を獲得するなど、高い評価を得ました。しかし、販売網が拡大せず、費用がかさむ一方だったのです。
そもそも運送手段が馬しかない当時、2mを超える醸造用機械や釜を運べないので甲府で製造。
ガラス瓶も簡単に作れないため、横浜に輸入されていたバスペールエール(イギリス産)の瓶を再利用しました。その瓶は横浜から真鶴へ運ばれ、芦ノ湖を渡り、馬の背にゆられ籠坂峠、御坂峠を越え甲府に辿り着きました。その後、野口正章は麦酒で借金を返すまでに至らず、家督を弟に譲り35歳で隠居します。
弟はそれでも麦酒生産を続けたが、新麦酒税が実施された明治34年3月に廃業します。その時、甲府に地ビールは残りませんでしたが、優秀な醸造技師が多く甲府から巣立っていったのです。そしてその111年後、柳町十一屋のあった場所の程近くに「アウトサイダーブルーイング」の醸造が始まり、その年の夏に甲府駅前広場で「地ビールフェスト甲府」を初開催。再び甲府は地ビールの街として歩み始めました。
資料
野口忠蔵氏より提供
参考文献
「大日本洋酒缶詰沿革史」
「エジプトの宮廷における酒宴とその準備(上巻ビールの起源 上編日本)」浜田徳太郎著
「十一屋の若旦那」井伏鱒二著
※本文章の著作権は地麦酒祭甲府実行委員会に属し、無断転載・転用を禁じます。2012年7月